日本で働いていると、多くの人が同じ感覚に行き着きます。
努力しているのに、なぜか楽にならない。
真面目にやるほど、なぜか消耗していく。それは能力不足でも、根性の問題でもありません。
日本型の組織と働き方そのものが、**人を「消耗させながら維持される構造」**になっているからです。このシリーズでは、
日本型サラリーマンが無自覚に巻き込まれやすい「消耗戦」の正体を、
感情論や精神論ではなく、思考と構造の視点から解剖していきます。ここに書かれているのは、
頑張れば報われる話でも、前向きになれる処方箋でもありません。
この構造の中で、あなたはどこに立ち続けるのか。
その問いから、逃げないための連載です。
「失敗してはいけない」
日本の職場では、この空気が常に漂っています。
失敗は避けるべきもの。できれば、誰かがやって成功した後をなぞるのが安全。
そう刷り込まれてきた人は、決して少なくないでしょう。
しかし、会社における「失敗」には、本来2種類があります。
- 会社の存続を揺るがす、致命的な失敗
- 新しい挑戦に伴う、致命的ではない失敗
問題は、日本社会がこの2つをほとんど区別しないことです。
その結果、多くの職場で次の結論が導かれます。
挑戦しないことが、最も合理的な行動である
これは個人の臆病さではありません。
そう振る舞うように設計された、社会構造の問題です。
「挑戦しない」が最適解になる日本社会の設計
日本企業が失敗に厳しい理由は、
単なる「リスク回避文化」では説明できません。
根本にあるのは、
再挑戦にかかるコストが、あまりにも高すぎるという現実です。
一度失敗すると、何が起きるか。
- 一度の失敗が、長期的な評価低下として記録される
- 「あの人は失敗した人」というレッテルが貼られる
- 降格、昇進停止、ボーナス減額といった具体的な不利益が生じる
- 取り返すための再挑戦の機会が、ほとんど与えられない
この環境で、誰がリスクを取るでしょうか。
結果として人は、
- 前例踏襲
- 無難な選択
- 波風を立てない行動
を繰り返します。
これは消極性ではありません。
個人防衛として極めて合理的な判断です。
しかし組織としては、
その瞬間から衰退が始まります。
「チャレンジャーに罰を与えない」外資系との決定的な違い
私が現在勤めている外資系企業での経験は、
日本型組織との違いを強烈に印象づけるものでした。
2008年、私は国内トップシェアの顧客に対し、
当社としても、恐らく世界的にも前例のない施工法を提案しました。
理論上は可能だが、実績はゼロ。
明確なリスクを伴う挑戦です。
当時のイギリス人上司が最初に行ったのは、精神論ではありませんでした。
- 失敗した場合のコストはどこまでか
- そのリスクは会社として許容可能か
- 成功した場合のリターンは、それを上回るか
これらを冷静に検討したうえで、彼はこう言いました。
「うちの会社は、チャレンジャーに罰を与える会社じゃない」
結果として、この施工法は成功し、
現在では当社独自の強みとして、毎年安定した収益を生んでいます。
さらにタイ、ベトナムへと展開され、
同分野における標準技術にまで成長しました。
この経験から私は、
失敗への寛容さが、最大の成長投資になり得ることを学びました。
※補足しておきます。
外資系が許容するのは、
リスクを評価したうえでの「計算された挑戦」です。
準備不足や能力不足による失敗は、
「失敗」ではなく「プロとしての問題」として扱われます。
この点では、日本以上にシビアです。
「挑戦しない社会」が支払う、あまりにも重い代償
日本では、失敗は挑戦者個人に深い傷を残します。
しかも本来責任を共有すべき上司が、
失敗の局面では距離を取り、
部下に負担を押し付けるケースも少なくありません。
こうして現場では、
「余計なことはしないほうがいい」
という空気が蔓延します。
組織は前例踏襲に固まり、
変化には常に後追いで対応するしかなくなる。
価格競争
無償サービス
過剰な現場負担
そのすべてが、
消耗戦を前提とした戦略です。
挑戦しない社会は、
静かに、しかし確実に人と組織を削っていきます。
結び:挑戦できないのは、あなたの問題ではない
挑戦できないのは、
勇気が足りないからでも、意欲が低いからでもありません。
挑戦すると損をするように設計された社会で、
人は合理的に動いているだけです。
問題は個人ではなく、
失敗を許容しない制度と文化にあります。
次回予告
次回は、
「責任の所在」が曖昧な人員配置が、
なぜ非効率と疲弊を生み出すのかを掘り下げます。
“誰の仕事か分からない”状態が、
どのように現場のエネルギーを奪っていくのか。
引き続き、構造の視点から解き明かします。
玄水
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