なぜ日本型サラリーマンは“消耗戦”を強いられるのか(11)|「育てる」という幻想が、現場と若手を静かに壊す

日本で働いていると、多くの人が同じ感覚に行き着きます。
努力しているのに、なぜか楽にならない。
真面目にやるほど、なぜか消耗していく。

それは能力不足でも、根性の問題でもありません。
日本型の組織と働き方そのものが、**人を「消耗させながら維持される構造」**になっているからです。

このシリーズでは、
日本型サラリーマンが無自覚に巻き込まれやすい「消耗戦」の正体を、
感情論や精神論ではなく、思考と構造の視点から解剖していきます。

ここに書かれているのは、
頑張れば報われる話でも、前向きになれる処方箋でもありません。
この構造の中で、あなたはどこに立ち続けるのか。
その問いから、逃げないための連載です。

「うちは人を育てる会社だ」

日本企業が、誇らしげに使うこの言葉。
だが現実には、人は育たない。

それどころか、
考える力のある若手から順に消耗し、去っていく。

理由は単純だ。
日本企業の「育成」は、能力開発でも成長支援でもない。

最初から、
幻想として運用されている。

問題は、上司の性格でも、
本人の努力不足でもない。

欠陥は、
制度と設計そのものにある。


目次

1. 「育成」という名の無計画な放流

本来、育成とは高度な設計行為である。

  • どんなスキルを
  • どの順序で
  • どのレベルまで
  • どれくらいの期間で身につけさせるのか

これらが定義されて、初めて
「育成計画」と呼べる。

しかし、多くの日本企業には、
この設計図が存在しない。

あるのは
**「とりあえず現場に出す」**という、無計画な放流だけだ。

私が以前勤めていた日本企業にも、
形式上は新人に教育係をつける制度があった。

だが実態は、制度ではなく完全な属人運用だった。

  • 教育係の能力
  • 性格
  • 社内での立場
  • 部署の空気

これら次第で、

「3年後も残れるか」
「心を折られて去るか」

が決まってしまう。

つまり、日本企業の育成とは、
キャリアを運に委ねるギャンブルなのである。


2. OJTという名の「責任の所在を消す装置」

日本企業で多用される
OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)は、
もはや教育手法ではない。

それは、
上司と組織の免罪符になっている。

「仕事をしながら覚えろ」
「見て盗め」
「そのうち慣れる」

これらは育成ではない。
ただの丸投げだ。

教える側に悪意はない。
彼ら自身も忙しく、
教える時間も、教え方を学ぶ機会も与えられていない。

その結果、何が起きるか。

  • 教えられない
  • 育たない
  • それでも「OJTはやったことになる」

という、
責任の所在だけが消える構造が完成する。

一方、外資系企業は前提が違う。

彼らは
「仕事ができること」を前提に採用する。

会社が用意するのは、

  • 製品知識
  • 社内ルール
  • 顧客情報

といった“ピース”だけだ。

前提条件が揃っているから、
OJTは短く、鋭く、機能する。


3. ミスマッチのツケは、最後に「本人」に回される

前回の記事で述べた通り、
日本企業の配置は「適材適所」ではなく
帳尻合わせである。

  • ミスマッチな配置
  • 設計なき育成
  • 放流されたまま成果を要求

そして、結果が出なければ、
最後にこう言われる。

「君の努力が足りない」

これは教育でも、成長支援でもない。
組織の責任転嫁だ。

特に新入社員は、
「会社は育ててくれる」という前提を疑わない。

だから耐える。
必死に適応しようとする。

だが2〜3年後、
「何も武器が身についていない」
という現実に気づき、深く絶望する。

稀に、この構造を早期に見抜き、
自力で学び、抜け出す人もいる。

しかし、それは例外だ。

ほとんどの人は、
壊れた育成システムの中で、
静かに気力と自尊心を削られていく。


結び:あなたは悪くない。設計が壊れているだけだ

日本型サラリーマンが消耗する理由は、
努力不足でも、根性不足でもない。

最初から、消耗するように設計されている。

成長できなかったのも、
挑戦できなかったのも、
あなたの能力の問題ではない。

組織が、
人を育てるための
人材設計そのものを持っていないだけなのだ。


次回予告

年功序列は「安心」ではなく「停滞装置」になる
なぜ日本型組織は、挑戦する人ほど不利になるのか。


玄水


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